力を入れた阿波踊りと山鹿灯籠の連載が、途中で止まってしまっています。
せっかく素晴らしい祭りを撮ったので、未完のままにしてしまうのはもったいないと思い、今更ながら連載を完結したいと思います。
今後も、無理のない程度にブログを更新し、主に写真作品の発表の場としたいと思います。
よろしくお願いします。
仙台市といえば、夏の七夕まつりが有名です。
吹流しやくす玉、青竹に願い事を書いた短冊といった七夕飾りが仙台駅前から続く商店街のアーケードに飾られます。
地元のデパート「藤崎」は毎年、デザインも材質も斬新な吹き流しで個性を主張しています。
人が踊る祭りが好きな僕は、この七夕は写真を撮るのが難しく感じました。
今年の夏も、風に吹かれる七夕の飾りつけを仙台の街で見ることができるでしょうか。
仙台市の隣の小さな市、多賀城市。
大地震の日から、沿岸部のコンビナートが何日にも渡って炎上し続けました。
地震と津波により、消防隊が近づけず、消火できなかったためでした。
多賀城でも津波で亡くなった方が何人も出ました。
その多賀城市の名所が、あやめ園です。
この日は、雨が降り、花菖蒲の花がしっとり潤って、季節感ある写真になりました。
今年も花菖蒲は変わらず咲いてくれるでしょうか。
あの地震で、あやめ園にも被害がなかったことを願っています。
福島県中通りの二本松市。
津波を受けた沿岸部に比べてあまり報道されませんが、ここでも震災と原発事故の被害は重く影を落としています。
二本松でも、原発事故の影響を受けて野菜の出荷制限を受けるなど農家が苦しんでいます。
市内の岳(だけ)温泉の老舗旅館は、若女将を先頭に頑張ろうとしていた矢先、地震により建物・設備が損傷した上、原発事故の影響もあって予約がすべてキャンセルに。
新たな設備投資は不可能と判断し、3月末で廃業してしまいました。
あまりに残念なことです。
その二本松市で10月に行われるのが、提灯祭り。
丹羽氏統治下の江戸時代に起源を持ち、市中心部の7つの町内から、それぞれ提灯を300個つけた台車が街へ繰り出します。
車がついているとはいえ、角を曲がる時は、男たちが険しい表情で台車を方向転換させます。
提灯の灯りが二本松の夜を照らします。
この夜、二本松は1年で最もにぎわいます。
二本松には、福島第一原発から至近距離の浪江町が、役場機能を移転し、町ごとの避難をしています。
二本松と浪江の人々の心が少しでも落ち着く日が、一日でも早く訪れますように...。
仙台青葉まつり。
仙台にいた時、僕は気軽に自転車で撮影しに出かけていました。
祭り、踊りの写真が好きな僕は、3年間毎年行きました。
今振り返ると、まだまだ拙い写真ばかりですが。
青葉の名にふさわしく、定禅寺通のケヤキ並木も青々と輝くころ、この祭りが開かれます。
主に企業が担い手となって、山鉾巡行も繰り広げられます。
徳島の阿波踊りでいえぱ「連」にあたる、踊りの団体。
すずめ踊りでは、「祭連(まづら)」と呼ばれています。
阿波踊りと同様、すずめ踊りでも、だいたい見ていると、どこの祭連はレベルが高いなというのがわかってきます。
僕がレンズを向けるのも、自ずと魅力的な祭連や踊り手に。
今回の大津波で、仙台市内で甚大な被害を受けたのが若林区。
数百人もの死者がというニュースに、僕は現実として受け止められませんでした。
同区の六郷地域は、海からは少し距離があり、津波の直撃こそ受けなかったものの、すぐそこまで波は来ていました。
今も、学校は避難所となっているようです。
なお、仙台と徳島両市は、観光姉妹都市で阿波踊りとすずめ踊りでの倉庫後交流もあり、今回も徳島市から仙台市に支援物資が届けられたとのことです。
発生からひと月になる、東日本大震災。
2004~07年の3年間を転勤で仙台で過ごした僕にとっては、現実として受け入れることがなかなか難しい、ショックなできごとです。
仕事の関係で、今まで東京を離れられませんでした。
できるだけ早く東北の被災地を訪れ、できるなら友人たちの顔も見たいという気持ちです。
写真をやる者として、その3年間に撮った現地の写真をご覧いただき、再び東北が元気になってほしい、一緒に頑張ろうという声援を送らせていただけたらと思います。
ただ、残念なことに、その3年間に岩手県の沿岸部だけは訪れた機会が少なく、これといった写真がありません。
宮城、福島両県の写真のみとなります。申し訳ありません。
復興には時間がかかり、特に福島では深刻な原発事故の影響もあって、観光はかなりの落ち込みが予想されます。
いつになるかはまだわかりませんが、観光客をまた受け入れられるほどに落ち着いた時には、ぜひ東北の岩手、宮城、福島の3県を訪れてみてほしいなと思います。
まず第1回は、仙台市に初夏の訪れを告げる、仙台青葉まつりです。
毎年5月中旬に、ケヤキ並木が美しい定禅寺通や国道4号線で繰り広げられます。
元気よく響く、すずめ踊りの掛け声。
これは、「カメラマン」2007年1月号フォトコン、佳作入選作品です。
すずめ踊りは、仙台城新築移転の際の宴で、泉州・堺の石工たちが披露したものが原型だと言い伝えられています。
今年は震災の影響がまだ色濃い中、5月の青葉まつりは中止となりました。
でも、また見られる日が、必ず来ることでしょう。
今は沖縄にいますが、沖縄に来る前の話です。
先日、小野小町の生誕の地と伝わる秋田県湯沢市(旧雄勝町)から、あきたこまちの新米が届きました。
2008年6月の小町まつりでその姿を撮った小町娘の一人の方が送って下さったのです。
彼女のご両親も娘の晴れ姿を撮影したのですが、残念なことに目をつぶった写真が多かったのだとか。
mixiを通じて今年になって彼女と知り合い、そのことを知った僕が、A4サイズに写真を何枚かプリントし、送って差し上げました。
その写真を、彼女と、とりわけご両親が大変喜んで下さったとのことでした。
写真をやる者として、こんなふうに喜んで頂けるのは、とても大きな喜びです。
そして先日、「写真のお礼」とおっしゃって、彼女の実家でお父様が主に自家用に作られているお米を下さったのです。
写真を撮らせて頂いただけでもうれしいのに、そして写真を喜んで頂けただけでうれしいのに。
本当に幸せです。
これだけでもう十分過ぎるほどうれしいのに、このお米がとてもとても美味しいんです。
粒立ち、というのでしょうか。一粒一粒がとても感じられ、食べていて幸せを感じるほどです。
今まで食べたお米の中で一番美味しいです。お米ってこんなに違うものなのかと、恥ずかしながら初めて思いました。
日本人でよかったと思いましたし、こんな美味しいお米を生み、日本の原風景を守っている農業を壊してはいけないと思いました。
今年は今まで以上に、写真を通じてうれしい出来事がたくさんありました。
人に喜んで頂けるような写真を、これからも撮っていきたいと思います。
#01
ニコン D700、シグマ APO 100-300mm F4 EX DG /HSM、195mm、1/320秒、F13、マニュアル露出、ISO2000、WBオート、沖縄県宜野湾市大謝名
沖縄独特の立派な亀甲墓。
住宅地の中などに散在する。
しかし、ここは米軍普天間基地。
先祖の墓が、フェンスの向こうにある。
この理不尽。
毎年4月の清明祭(シーミー)の時にだけ、近隣住民は立ち入りを「許可」される。
やや長い出張で先月末から沖縄に来ています。
実に今年4度目の沖縄出張です。
今回僕は、宜野湾市で仕事をしています。
宜野湾市はいうまでもなく、米軍普天間基地に市のど真ん中を占領されています。
そして、他国、アメリカ本国では絶対にありえない、住宅地の間近を米軍機が低空飛行し、離着陸する「世界一危険な基地」です。
その危険性は、2004年の沖縄国際大米軍ヘリ墜落事故で実証されました。
写真は、滑走路への着陸進入コース直下で騒音が最も酷い上大謝名地区で。
住宅の上に米軍機が迫ってきます。
「頭の上に落ちて来るんじゃないか」という沖縄の人の表現を新聞で読んだことはありましたが、宜野湾市を歩いていると、それを実感します。
こんな状態が365日続く、宜野湾市の日常です。
一部の友人のみなさまには既にお知らせしましたが、4月25日午前に母が亡くなりました。
2008年以来、パーキンソン病で入院、闘病中でした。
今までも何度か肺炎を併発したことはありましたが、今回は乗り越えることができませんでした。
62歳でした。
しかし、母が精一杯頑張ってくれた結果だと思います。
僕はその日、新しい米軍基地建設に反対する沖縄の歴史的な県民大会の場にいました。
沖縄へ発つ前日の19日夜に見舞った時点で、母は呼びかけても受け答えができませんでした。
母は、自分より人を優先し、悪い政治や理不尽なことを憎み、優しい心を持つ人でした。
僕は母から顔かたちや、知らず知らずのうちにものの感じ方の多くを受け継ぎました。
僕に何かよいところがあるとすれば、その多くは母から受け継いだものであり、母の子だからこそ今の自分があります。
急遽東京に戻っても母と会話できないことにかわりがないなら、その歴史的な場面で役割を果たさず帰京しては、むしろ母の意に反すると思い、大会を見届けました。
そのこと自体には後悔はありません。
母は細く弱い体で、僕をよく産み育ててくれたものだと思います。
僕は27歳になる時まで実家で生活しました。一人暮らしをする直前には、今まで母に任せ切りだった家事を習いました。
母はその人生の半分近くを僕という人間を育てるために費やしてくれたわけです。
僕のものの感じ方は母のそれであり、自分の一番の幸せは僕の活躍だといってくれた母の言葉を思うにつけ、僕という存在そのものが母の生きた証だと思えてなりません。
そしてこれから、仲間のみなさんとともに、僕がよりよく生きていくことがまた、母が生きた証になると思っています。
ようやく僕という子がその手から離れ、母自身がもっとさまざまなことを楽しんで暮らしていけるという時にその生涯を閉じたことは残念です。
僕がその後どう歩んでいくかを、もう10年、20年見届けてほしかったと思います。
ブログの更新がしばらく止まっていた理由はこれだけではありませんが、今後また再開していきたいと思っています。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。
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