安全よりも利益第一主義に狂奔したJR西日本が107人もの尊い命を奪った福知山線脱線事故から3年がたちました。
今年も僕はできるだけ黒に近い色のネクタイを締めて出勤しました。
これほど重大な事故を引き起こしたJR西日本に課せられている責任は何か。
この「日々雑感」でも毎年のべてきたとおり、遺族・負傷者をはじめこの事故で傷ついた人々の心にふれる、心からの反省・謝罪と、二度とこのような事故をおこさないという取り組みです。
この二つを実行するために欠かせないのが、事故をもたらした本質的な要因を自ら解明し、それを率直に示して自らを批判することです。
心に響くお詫びとは
今年の追悼慰霊式でも山崎正夫社長は、遺族に対してお詫びの言葉を繰り返しました。
しかし、言葉は丁寧でも、事故の本質的な原因は何かということをのべ、反省するということはありませんでした。
山崎氏は、「事故当事者としてなぜこのような悲惨な事故をひき起こしたかについて、自ら振り返り掘り下げて考えてみた中で」との言葉に続けて、「組織間の連携や社員間のコミュニケーションの不足、知らず知らずのうちに現状を良しとする風潮が芽生えてきていた」とのべました。
これらは、個別的な事象、現象ではあっても、本質的な原因ではありません。
こうした言葉を並べて「反省」してみせても、遺族たちの心には響かなかったのではないでしょうか。
懲罰的な「日勤教育」の見直しや、過密ダイヤの見直し、ATSの設置を含めた安全投資の増加など、始められている努力はあります。
しかし、JR西日本に公共交通機関としての使命感、責任感がまだ少しでも残っているなら、安全よりも利益を優先する経営体質が根本にあったということ、そこから安全投資の遅れ、過密ダイヤの設定、運転士をはじめ社員らに対する締め付けが生まれていたということを率直に認めて、これをきっぱり否定した新しいJR西日本への再生の道を歩むことを宣言すべきではないでしょうか。
本質的な原因を曖昧にしたまま、言葉だけで「反省」をのべても、遺族の悔やんでも悔やみきれない気持ち、怒り、悲しみは癒されず、歯がゆい思いが募るのではないでしょうか。
そういう意味で、JR西日本は今もなお遺族たちを日々苦しめ続けているといっても、いい過ぎではありません。
弊害噴き出す新自由主義
この悲劇の根底に、もっと大きな問題、国、政権党、財界の責任がよこたわっていることも指摘しなければなりません。
国鉄をJRに分割民営化し、利潤を追求する本質をもつ企業にしてしまったことは、この事故と深くかかわっています。
JR西日本の安全軽視、利益優先の体質がそこから生まれたことは明らかだからです。
国や自治体の公共サービスを民営化、民間委託したり、企業の参入を認め、何でもかんでも資本の利潤追求の対象にしようとする市場化・営利化路線、民間解放・規制緩和を柱とする新自由主義路線は日本でも1980年代から進められてきました。
今、この路線の狙いが次々に実現するや、その弊害があらゆるところで噴き出して、この路線に対する疑問の声がわきおこっています。
もうからないからと、地域から病院をなくしていいのか。郵便局をなくしていいのか。農産物の価格を市場任せにしていいのか。常に犠牲者となる国民、庶民が、この流れを押し返さなければなりません。
1047人の声は正しかった
福知山線事故と表裏一体といってもいいのが、国鉄の分割民営化・JR発足時に、反対していた国労、全動労などの組合員を差別してJR採用から排除し、1047人を解雇したJR採用差別事件です。
「民営化すれば、もうけ優先、安全軽視につながる」。分割民営化に反対した労働者らがあげた声は正しかったといわざるをえません。
分割民営化がこうした声を抑え付けて強行され、JRが生まれたという経過が、JRの体質を物語っています。
事件から21年、差別された労働者らは塗炭の苦しみを味わいながらも、自分たちは間違っていないという誇りと、仲間どうしの連帯や支援を力にして頑張ってきました。
1月23日の全動労訴訟東京地裁判決では、JRへの採用名簿を作成した国鉄が不当に差別を行ったことが明確に認められ、不法行為・不当労働行為があったことが断罪されました。
政府は、司法の裁きを厳粛に受け止め、採用差別事件の解決のため、当事者らが求める交渉の席につくべきです。
自民党、財界が進めてきた間違った国づくりを転換させることが、福知山線事故の被害者の悲しみ、JR採用差別事件の被害者の苦しみを無にしないということ、国民一人ひとりの幸せともつながっているのではないでしょうか。
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