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2007.08.07(火)

今回の撮影機材

D20_6432.JPG いよいよ旅の最終日になってしまいました。寂しい限りです。

 今回の旅は祭りの撮影がメイン。カメラの機材はなかなかの重装備になってしまいました。
 今回持ち歩いている機材は次の通りです。旅が始まる前か序盤に書こうと思っていたのですが、時間がなくて今になりました。

〔カメラ〕
ニコン D2H(望遠=人物アップ用)
ニコン D200(標準、広角=人物・状況の全景用)

〔レンズ〕
ニコン AF-S DX Zoom Nikkor ED 12~24mm F4G(IF)
トキナー AT-X 107 DX Fish Eye 10-17mm F3.5-4.5
タムロン SP AF28-75mm F/2.8 XR Di
シグマ APO 100-300mm F4 EX IF HSM

〔フラッシュ関係〕
ニコン スピードライトSB-800×2台
ニコン スピードライト用アシストパック SD-8A

〔電源関係〕
ニコンD200の予備バッテリー×1個
ニコンD2H用充電器
ニコンD200用充電器
SANYOニッケル水素充電池(eneloop)単三×16本
SANYOニッケル水素充電池用充電器×2個
テーブルタップ(差し込み口4つ)

〔カメラ用メモリカード〕
CFカード4GB×2枚
CFカード2GB×1枚
CFカード521MB×1枚
LOAS製メモリカードリーダ

〔その他撮影機材等〕
三脚 ベルボン エルカルマーニュ645(鉄道撮影専用)
雲台 ハンザPROなんとか(型番失念、同上)
脚立(2段)
折り畳みイス

〔パソコン関係〕
Panasonic Let'snote R4G
同電源アダプタ
LANケーブル
Docomo FOMAとの接続USBケーブル

D20_6440.JPG 宿泊の着替えなどがほんのおまけになるほどの大荷物です。
 これを全部抱えると半日、いや1時間も持たないので、カメラバッグをカートに乗せて引いています。三脚もベルトを使ってカートのうしろに付けています(これはアウトドア用品店モンベルの仙台支店長さんにお世話になりました)。

 カメラが2台なのは、もちろん、激しい祭り撮影の時はレンズ交換する時間がないからです。この祭り巡りの旅にカメラ2台体制で臨むために、スピードライトをもう1台買い増しました。
 スピードライトの補助電源であるアシストパックも威力を発揮しています。これには単三電池6本を入れています。D2Hのほうのスピードライトに付け、夜の人物アップを連写する際に電力を途切れることなく供給します。これがなければいい写真を撮れる確率が半減するのではないかと思います。

 以前にブログに少し書いた、トキナーの魚眼を買ったのは今回の旅が直接の目的です。このレンズを買っておいて本当によかったです。
 秋田の竿燈の撮影を念頭においたのですが、まさに想定どおり、本番で大活躍しました。あの夜はしばらくD200につけっぱなしにしていました。

 この重装備に加えてカメラマンベストを着ているので、頻繁にプロカメラマンと間違われました。当然だと思います(笑)。ベストはできれば着たくないのですが、色々な小物を収納できる実用性のため、やはり必要でした。
 カメラ、レンズ、フラッシュ関係以外の荷物はすべてリュックで背負っています。結構な重さです。

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コメント (2)

<$ default_name="Anonymous" show_email="0"$> :

 残暑お見舞い申し上げる。
 プロカメラマンに間違えられたって?
 あんた、昨年は地質調査研究員と間違えられたじゃないか(笑)大学から、琵琶湖一帯の地質調査に来たんじゃないかと民宿のおばさんは言ってたね。
 まあよくツールをそろえたね。私のようにEOS1000からカメラに入った世代は、フィルムも買えず、安売りセールでまとめ買いしたアグファがまだ冷凍庫に。

 と、マニアックな話をしたところで、貴兄が復活を望む国鉄の62年前を調べてみました。
 当時は、もうベテランの運転手や技師は徴兵・徴用され、山陽本線広島機関区の平均年齢は20歳を割っていたそうです。
 本務機関士はなんと17歳、機関助手は高等小学校卒業したての14歳。広電の運転手も15歳以上の女学生。
 広電は、まだ午前中は女学生に勉強時間を保障していたそうで、志願倍率が高かったそうです。
 悲惨な鉄道事故も相次ぎました。
 駅について隣をみたら、釜焚きの少年がいない。峠を下るだけだったので、蒸気はブレーキ用だけなので寝てろと先輩の少年は言ったそうです。結果、助手は86のキャブ(広いから確かに座れますね)より転落したらい。
 しかし、軍は遺体捜索すら許してくれなかったそうです。人員はそこまで切迫してました。
 筑肥線の1945年5月頃の事故でした。
 
 敗戦の8月15日。
 軍需工場の大人達は呆けてしまってなにもできなかった。
 それでも中央線は動いていたんだよ。
 中野から向こうは何もなくてね。
 でも、汽笛が聞こえてきたときは、涙がとまらなかった。
 神宮の学徒出陣式にも参加した大叔母は毎年話してくれます。
 越美南線(ながらがわ鉄道)八幡駅でも、やはり当時代員教員をされていた方から同じ話を聞きました。
 私の命ある限り、語り継いでいきたい歴史です。

 参考 宮脇俊三「時刻表の昭和史」
   「鉄道員物語」ISBN-13: 978-4796615440
 

<$ default_name="Anonymous" show_email="0"$> :

>>Heppokoさん

そうだった。滋賀で地質調査研究員と間違えられた(笑)。
おばさんもマニアックな間違え方をしたもんだ。

鉄道にまつわる、今の季節にふさわしい戦争の話をどうもありがとう。
僕も昨日、旧山形県庁の「文翔館」でやっていた写真展で兵士を乗せた列車の写真を見たよ。
平和と運行の安全は、僕ら鉄オタ趣味の大前提だね。

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